元保健師の転職物語♪
●子供の頃から片づけが大好き
小学生時代・・・
片づけ・部屋の模様替えが大好きでした。
自分で家具を動かしたり、ペンキを塗ったり、
カーテンとクッションカバーをお揃えで作ったり・・・
見た目だけきれいに片づける母のことが子供心に嫌で、
開けるとぐちゃぐちゃな引き出しの中を箱で仕分けしていました。
中学生時代・・・
担任の先生が開けた引き出しの中があまりにも汚いのを目の当たりにして、
片づけさせてほしいと申し出ました。
今ではありえないことだと思うのですが・・・
当時はすんなり受け入れられ、全ての引き出しを片づけました。
担任の先生に密かにあこがれていた私は、
引き出しの中のモノから現在進行形の彼女がいることを知ってしまい、
かなりショックだったことを今でもはっきり覚えています。

●手に職をと言われ続けた学生時代
中2の頃、両親が離婚し、栄養士をしていた母に引きとられ、
「手に職をもつように」と言われ続けて育ちました。
教師の道を目指しましたが、残念ながら某教育大学は不合格。
一年だけの浪人生活を認められましたが・・・
勉強している姿を見て、母は言い放ちました〜
「こんな勉強の仕方では、間違いなく大学は不合格!」
「万が一、大学に合格しても、教員採用試験は受からないだろう」
「万が一、教員採用試験に合格しても少子化に向けて採用場所がないだろう」
「万が一、採用場所あっても、これからの少子化時代の子供には、
今では考えられないような問題が起こってきっと大変」と。
そして、言いました〜
「教師なんかより保健婦(現在、保健師)になりなさい。
保健師が講師となる母親教室・病気予防などの健康講座には、
授業中寝るような子がいるような学校とはちがって、
熱心に聞いてくれる人達が来るからやりがいがある。」
「これから迎える高齢化社会には引く手あまたの職業だから、
公務員としての就職率も100%近い」と。
母に従順だった私は逆らうことなく急遽進路変更して保健師に。

●15年間の保健師時代
念願叶い、堺市役所の保健師として採用されました。
保健師の仕事は、母が私に話したことはほんの一部で、
実際は虐待児・障害児・寝たきり老人など様々な人々の生き様に向き合う
という大変な仕事でした。
人生経験未熟の新規採用の私にとっては至らぬことが多く、
辛い日々もありましたが・・・
素晴らしい上司や同僚のもとで仕事へのやりがいを痛感し、
この仕事にのめり込んでいきました。
その頃、結婚・出産とプライベートも充実していました。
でも・・・
この奥の深い仕事にのめり込めばのめり込むほど、
自分の無力さや限界を感じるようになりました。
事なかれ主義の上司の下で働くことになり、さらに追い討ちが・・・
そんな私にとって、唯一の息抜きは収納やインテリアを考えたり、
友人を招いてホームパーティーをすることでした。
友人たちに褒められる収納やインテリアに自信があったわけではありませんでしたが、
世間はどう思うのだろうかと試してみたくて、
たまたま手にした雑誌のインテリアコンテストに応募したのです。

●人生を変える出来事・出会い
初めて応募したインテリアコンテストでは、収納部門賞を頂き、何と賞金10万円をGET。
もっと試したくて、他の雑誌にも応募したところ次々と掲載され、
TVにも何度か取材を受けるまでになり、これは私の特技かもと思い始めていました。
そんな時・・・
夫がたまたま見つけた「自分らしく生きる」というテーマの講演会に参加。
まさかこの講演会が、私の人生を大きく変えることになるとは・・・
この講演会の講師は、
インテリアコーディーネーターという職業を日本に取り入れた町田ひろ子氏。
周りの反対を押し切って自分の好きを仕事にした町田氏の生き方は、
親に従順に生きてきた私にとって、青天の霹靂でした。
また、その講演会を手伝っているスタッフ(後に町田氏が経営する学校の生徒
とわかりましたが・・・)の顔が皆イキイキしているのを見て・・・
私はなんてくすんでいるんだろう、彼女たちのように輝きたいと強く思いました。
ちょうどその頃・・・
息子の同級生のお母さんが35歳という若さでがんで亡くなりました。
また、その頃・・・
退職後に夢を実現しようとしていた矢先に病に倒れて寝たきりになった方
若くして難病で寝たきりになり夢を断念した方などに仕事で出会い、
「やりたいと思った時がやり時。後悔しない人生を送るように」
という人生アドバイスを受けました。
「今死んだらきっと後悔する」と強く思いました。
「親の敷いたレールではなく、自分の好きを仕事にしたい。」
「悔いのない自分らしい人生を送りたい」
沸々と湧き出す思いをもう止めることはできませんでした。
保健師をやめて、好きを仕事にしたいと夫に告げると・・・
「1度きりの人生、やりたいようにやったら」とのありがたい言葉。
そして、一言。
「すぐに退職せずに、もう少し勉強してから辞めたら」
この一言が、私と夫に地獄の日々をもたらせるとは・・・

●転職に向けての超ハードな2年間
夫の一言を最もだと思った私は、即、行動開始。
当時「収納アドバイザー」という職業は、専門的な知識を学ぶ場もなく、
今のように資格があるわけもなく、名乗った者勝ちの職業でした。
「収納アドバイザー」と重なる部分もある「インテリアコーディーネーター」の
専門的な知識を学ぼうと専門学校に入学することに決めました。
山ほどあるインテリアコーディーネーターの専門学校の中から、
迷わず町田ひろ子氏が校長を務める
「町田ひろ子インテリアコーディネーターアカデミー」へ。
公務員として働いていたので、夜間クラスへ入学。
当時息子は小4、娘は4歳でした。
クラスメイトは、ひと回りほど歳の差があるOLさんばかり。
子持ちの既婚者は、私一人。
週2回の通学でしたが・・・
仕事が終わると即学校へ行くので、その日の夕食は早朝に作り、
保育所の送迎、子供の食事・お風呂・寝かしつけなどは夫に任せる日々。
しかも・・・
毎回出される課題はかなりハード。
合格点をもらえないとやり直しという厳しさ。
簡単にできるものではなく、学校のない日は課題で全てつぶれるほどでした。
あまりの大変さにクラスメイトの1/3ほどが辞めていきました。
休日も子守りをさせられる夫の負担がどれほど大きかったかは、
とても言葉では言い表せません。
夫にはいくらお礼を言っても言い足りないほど感謝の気持ちでいっぱいです。
一方、私の毎日は睡眠時間が3時間ほどの超ハードな日々。
でも・・・
学校での学びが驚き・感動の連続で、好きなことを学ぶ楽しさを痛感しました。
そうこうするうちに、2年の月日は流れ、無事学校を卒業し、収納アドバイザーへ転職。

●再び学校へ
友人の勧めでまた行きたい学校が見つかってしまい、
退職すると同時に都島工業高校二部の建築科へ途中編入。
この学校では、溶接・木工作品作りから障子・クロスの張替えなどを学び、
まるでDIY教室のようで、とても楽しく過ごせた1年でした。
ここでは、クラスメイトは私より年上ばかり。
77歳の男性の熱心さには感心させられ、
歳を重ねても学ぶ姿勢は持ち続けたいと強く思いました。

●転職してみてわかること
全く違う仕事への転職のため、
保健師としての15年間を無駄な回り道だと思っていましたが・・・
収納アドバイザーの仕事は単に部屋を片づけるだけでなく、
片づいた状態を維持するためには、お客様のモノの持ち方(大げさに言うと生き方)を
リセットして頂くための支援がとても大切になりますので、
人の生き様と向き合う仕事という意味では、保健師と通じるところが大いにありました。
また、保健師の時に、健康教育などで人前で話すことに慣れていたため、
大勢の前で話す講演会でも、あまり緊張せずに話せる気がします。
また、障害を持つ方への関わりが必要な時も、既に知識を持っているので、
適切な対応ができたのではと自負しています。
そして・・・
私の母の影響もかなり大きかったことを改めて感じました。
母は、今から50年以上前の高校生の頃、
姉から「これからの女性は手に職を持つことが大事」と強く栄養士を勧められ、
仕方なく栄養士の道に。
離婚後はこの資格が大いに役立ったのですが・・・
どうしても好きになれない仕事だったらしく、
いろいろ苦労の末、「自分の好き」を仕事にし、
現在は中学の頃から大好きだった骨董の道に進み、
古物商として全国の骨董市を行脚中です。
そんな母の口癖は「いつ死んでもいいほど幸せ」。
子供の頃の夢は叶うんだいうことを、母は身を持って知らせてくれたのだと
転職してみてわかりました。

そんなこんなで、今の私がいます。